導入:感情の裏に潜む優生思想の影
近年、SNSをはじめとする公的言説の場において、「キモい」「生理的に無理」といった言葉が、特定の属性を持つ人々(特に障がい者や社会的弱者とされる男性)への排除の理由として、あたかも正当な**「権利」**であるかのように主張される傾向が見られます。
これは単なる個人の感情論に留まらず、その根底には、自分の感情的・身体的な快適さのために他者の存在を否定しようとする**優生思想(特定の属性を排除する思想)**が横たわっています。
さらに深刻なのは、この排除の論理が「女性の自己決定権」や「安全の権利」という名のもとに**「特権」**として擁護され、従来の弱者解放運動が目指してきた普遍的な倫理(万人への差別の禁止)と衝突している点です。本稿では、このダブルスタンダードの構造を解析し、「誰が真の弱者か」という視点の欠落がもたらす悲劇的な矛盾を指摘します。
議論の核心:ダブルスタンダードを生む「特権の論理」
なぜ、「自分への差別は許さないが、自分が行う差別は許容する」という二重基準が発生するのでしょうか?その背景には、「女性は特権階級であるべきだ」という、極端な権力思想が見られます。
① 「歴史的被害者」の絶対化
この特権の論理は、「女性は歴史的に抑圧されてきた被害者である」という事実を出発点とし、この地位を**「倫理的な免罪符」**として絶対化します。
- 論理構造: 私たちは被害者である → 私たちの感情や安全の要求は絶対的な正義である → したがって、私たちの利害に反するものはすべて不正義であり、排除の対象である。
② 私的感情の「公的支配」:感情の独裁
この論理が公的領域に持ち込まれると、「個人的な不快感」が、社会全体の「不正義」として定義されます。
- 「私が障がいを持つ男性をキモいと感じた(私的感情)」 ↓
- 「彼の存在は私の安全と快適さを脅かしており、社会的な害悪である(公的制裁)」
このプロセスは、普遍的な倫理(黄金律)を放棄し、「私の感情を侵害しないこと」を社会の絶対的なルールとすることを要求します。これは、**「感情の独裁」**であり、他者危害の原則(他者に危害を与えない限り、個人は自由であるという原則)の否定に他なりません。
深掘り:「誰が真の弱者か」という視点の欠落
この特権志向が最も悲劇的な矛盾を生むのが、「インターセクショナリティ(交差性)」の視点の欠落です。
インターセクショナリティとは、人種、階級、ジェンダーなど、複数の差別の要因が交差することで、より重層的な抑圧が生まれるという概念です。
しかし、特権志向に傾倒した議論では、この視点が失われます。
| 構造 | 特権志向の論理 | 実際の構造(真の弱者) |
| 対象の認識 | 「男性」である以上、すべて家父長制の潜在的な加害者と見なす。 | 障がいや経済的困窮を持つ男性は、ジェンダー構造においても弱い立場にある。 |
| 排除の構造 | 過去の抑圧者であった男性社会に対抗するために、弱者を切り捨てることを許容する。 | 結果的に、**「強い感情を持つ者が、弱い立場にある人々を排除する」**という、家父長制と同じ強者の論理を再生産している。 |
つまり、この排除のロジックは、抑圧された人々(女性)が、自分たちと同じく抑圧されている人々(障がい者や社会的弱者)に対し、かつての支配者が用いた**「排除と選別の論理」**を適用する、という倒錯的な構造を生み出しています。
結論:特権の誘惑と普遍性の回復
「女性は特権階級であるべきだ」という主張は、過去の痛みに基づいた切実な願いかもしれませんが、そのロジックは極めて危険です。
- 差別は差別である: 「自分の利害打算やメンツを守ることに起因した感情による差別」は、最も冷酷な社会防衛的優生思想であり、差別をされたくないのであれば、差別をする権利は誰にもありません。
- 特権の帰結: 特権は、それを維持するために絶えず外部(排除対象)を作り出す必要があり、それは女性自身を孤立させ、真の連帯を不可能にします。
私たちが目指すべき社会は、過去の抑圧からの解放と同時に、**「誰に対しても差別が許されない」**という普遍的な倫理が貫かれた社会であるはずです。
この矛盾を乗り越え、共生の道を探るためには、感情の絶対化から一歩引き、**「あなたの『お気持ち』は、社会の『法律』ではない」**という、理性的な線引きを改めて公的領域に持ち込むことが、今、最も求められています。
